〈一坪の宇宙〉について

まず、私が3年前に「こころの科学」(158号所収。日本評論社)に書いた論文の一部をご覧ください。

このうち第2章に、茶道から想を得た部分があります。

この文章は「精神科薬物の“官能的評価”」についてのものですが、精神科臨床(臨床心理)全般に通ずるものと考えています。

 

「戦士の休息」のカウンセリングルームはたった一坪しかありません。
ただこれは、私が単なる思いつきで作ったものではありません。

これまでの約20年間の臨床経験のなかで、自らの身体感覚を軸に
「過不足のない大きさで、カウンセラー・クライアントとも最も安心して有効にカウンセリングを展開できるのはどのような空間か」
ということを、考え抜いた末に辿り着いた解であり、これは必然的に構成されてきたものだといえます。

すなわち私は、「「戦士の休息」のカウンセリングルーム」=「茶室」と見立てており、そこには〈一坪の宇宙〉が展開するのだ、というイメージを描いております。

そのため、クライエントさんにも“茶道の精神”(それについては、また改めて紹介します)を当院カウンセラーともども確認いただき、この一坪の空間に込められた意味をあらかじめ理解していただくことにより、そこでのカウンセリングがより豊穣なものとなると、私は信じるのです。

熊木徹夫(ビジネスマン専門カウンセリングルーム「戦士の休息」代表・精神科医)

<愛知県名古屋市。名古屋駅から徒歩3分。TEL:052-446-5085
www.dr-kumaki.net/senshi/

~~~~~

 

「官能的評価」から考えた精神科治療論 ~いかに抗うつ薬を、服み効かせるか~

あいち熊木クリニック 熊木徹夫

 

1:“服み心地”と「官能的評価」の違い

私は拙著『精神科医になる』(中公新書)の中で、精神科薬物の「官能的評価」という用語を持ち出し、こう提唱した。<処方あるいは服用した薬物について、患者あるいは精神科医の五感を総動員して浮かび上がらせたもの、(薬物の“色・味わい”といったもの)や、実際に使用してみた感触(薬効)、治療戦略における布置(他薬物との使い分け)といったもの>。そしてこれを集積することで、おのずから薬物が持っている特性とそれにシンクロする患者の身体構造が浮き彫りになるのだと述べた。ではこの「官能的評価」と,、いわゆる“服み心地”とはいかように違うのか。

“服み心地”とは、患者にのみ帰属するものである。患者がそれを自覚し表出することで、完結する。それに対し「官能的評価」とは、精神科医・患者の間主観的体験を言語化したものである。もっというなら、患者の身体に発して、精神科医やその他体外環境(治療の場、および患者の生活環境)との相関関係にまで及ぶものである(言い換えるなら、これは「身体の空間的連続性」を指し示すものである)。

また身体は、時々刻々あるベクトルを指し示しながら、揺れ動いている。「官能的評価」とは、その連続的な揺れ動きを患者自身が感じられることで、初めて表現できるものである(ここには「身体の時間的連続性」が表現されている)。

このように「官能的評価」という、現時点の患者身体に端を発し、精神科医や周辺環境、未来の患者身体といった時空間を超越したところにまで連綿と続く意識の持ち方を想定しなくては、精神科薬物は、ただ単に眼前の患者が表出させる症状に対し、操作的に外力を加えるというものでしかない。

そこで、この「官能的評価」が精神科治療において持つ可能性を探りたい。そして、実際に良質な「官能的評価」をどのように引き出し、それを臨床の場でどのように役立てるか、その方策を講じたいと考える。

 

2:“主客”の共鳴から生まれる「官能的評価」

まずこの「官能的評価」が機能するためには、どのような前提がなくてはならないか。

茶道などで持ち出される「主客一体」がそれである。「主客一体」とは、主人と客がそれぞれ主体を維持しながら、同じ「おもてなし」の場を共有して、相互が共鳴して新しい価値を創発していくような関係を指して言う。

さらには、「一座建立」が果たせれば言うことはない。「一座建立」とは、これもまた能楽や茶道の世界について述べられた言葉で、その世界の楽しさも、純粋さも、高さも、その一座に居合わせたものが、お互いに相手を尊敬し、心を合わせ、何刻かの心和んだ高い時間を共有しようという気持があって、初めて生み出すことができるものに他ならない。(井上靖『一座建立』より)

この“主人と客”とはすなわち、精神科医と患者であり、”一座”とはすなわち、診察室などの臨床の場であると置き換えて考えてみるとよい。そしてこの“一座”にあって、“主客”の共鳴から生まれるものが、「官能的評価」なのである。

とはいえ、あらかじめ精神科薬物の専門知識や多くの投薬経験を有し、治療を主導するのは、“主”たる精神科医であるべきなのは言うまでもない。精神科医の役割はオーケストラにおける指揮者の役割である。自ら音を作り出す役目を負わない。患者の身体構造を感知し、それにふさわしい処方を編むこと、すなわち治療のコンテクストを編むことが、その“主”たるものの役割である。

それに対し”客”たる患者は、オーケストラの演奏者である。指揮者の意を受けてハーモニーを形作るべく、直接「官能的評価」という“音”を発する役を担うが、この音は演奏者だけのものではない。指揮者と演奏者の“共同作品”なのである。

 

3:そもそも身体感覚の鈍い人とは

ところで精神科薬物療法は、単に患者の表層的な精神症状のコントロールを司るだけのものではない。精神科医は投薬を行う過程で、治療をうまく機能させるような良き「官能的評価」を患者から炙りだしていく。オーケストラにおいてもいい“音”があるように、「官能的評価」にも、治療をうまく機能させるような良き「官能的評価」と、そうでないものがある。そしてその過程で、患者の身体を耕し、適正な身体感覚を醸成することを狙うのでなくてはならない。うまくいけば、患者がひとまず精神状態の収まりを見せた後も、心身の悪化を最小限に食い止める術を、恒久的に身につけることができる。すなわち、精神疾患の寛解過程を経験するなかで、患者はこの疾患の再燃を未然に防げる”強“い身体”へと変わり身を果たせるかもしれないのだ。

ではそもそもどのような人が、適正な身体感覚を持ち合わせていない人(すなわち、身体感覚の鈍い人)なのか。彼らは皆、身体の発するパルスの感受に問題がある。ただ各々の精神疾患により、若干その特徴が異なる。

過食症や嗜癖(快楽が伴う癖)では、ある種の観念が先行・暴走している。「こうありたい」「こうあらねば」という願望・強迫志向が強すぎて、かつてあったであろう身体のホメオスタシスがどういうものであるのか、最早分からなくなってしまっている。その結果、身体は観念の“道具”に成り下がってしまっている。そのため、身体の“実在”を再確認することがその治療目標となる。

心気症では、通常ありえない薬物の“副作用”がたてつづけに表現される。まったく同じ量の薬物が投与されていても、時と場合により効果に大きな差異があり、その身体における一定の傾向が読み取れない。症状の現れ方も時々刻々変遷し、一貫性を欠く。「大きな病気をして死んでしまうかもしれない」という不安・恐怖に常に圧倒され、身体の発する極めて微細なパルスにも過敏に反応し、その意味を誇大に解釈してしまっている。老病死を諦念をもって受容できるようになることが、長期の治療目標である。

パニック障害(や、その他心身症と呼ばれるいくつかのもの)では、突然前触れもなく、激しい自覚症状が出現することが多い。持続的に発せられているパルスでも、相当大きく患者の実存を脅かすほどのものでなければ、感受できなくなっている。「身体が私の言うことを聞かず、急に暴れ出した」と憤慨するケースも数多くある。しかし逆に、患者がこれまでに自らの身体に与えてきた“ひどい仕打ち”に気づき、身体が自らの横暴に耐えてきてくれたことへの“感謝・慈しみ”が芽生えるようになると、おのずと身体感覚が立ち現れ、急激に状況が改善することも少なくない。

 

4:良き「官能的評価」がもたらされるための条件

次に、良き「官能的評価」がもたらされるための条件とはどのようなものか、以下に列挙してみたい。

 

1)精神科医・患者がお互いに信頼し合っていること

臨床の場は、真剣勝負の場である。ここには、精神科医・患者各々に、「処方する覚悟」「服薬する覚悟」がなくてはならない。双方とも、治療に対し、腰が引けていてはいけない。精神科医は、患者から大切な身体を託されている。それは精神科医が薬物療法の専門家であり、これまでに数多くの処方を担ってきた経験が患者の信頼を受けているからに他ならない。精神科医は懸命に考え模索し、良き結果に導けるという自信が持てぬのなら、処方を敢行すべきではない。また患者は、精神科医からの治療的説明に心底納得し、その治療におけるいかなる結果も自らの身体で受け止めようという構えが作れないのなら、服薬に及ぶべきではない。

例えば治療の途上で、患者が「薬漬けにされている」などと被害感を露わにする場合、その治療は破綻しているといえよう。それは、精神科医が患者の心底からの納得を得る努力を怠り、スタンドプレーを行ったか、患者が精神科医からの説明を理解・納得しようとしないまま、漫然としたまま服薬に及んだか、そのいずれかだからである。治療主導者である精神科医の治療上の責任は無論大きいが、一緒に“治療共同体”を成す患者にも、応分の責任はあると了解されるべきであろう。

また一方で患者には、精神科医や精神科薬物に依存し続けることへの恐れがある。その恐れはもっともであるが、一旦、精神科医や薬物に身を委ねないことには、最終的に目指す状態に導いていけない場合があることを伝える必要がある。そんなとき、私は「自転車に初めて乗る子供の例え」を出す。「今のあなたは、初めて自転車を漕ぎ出そうとする子供に似ている。最初、子供は一人で自転車に乗れない。そこで父が後ろ支えをしてくれる。子供は父の支えのもと走り出すが、しばらくして父が手を放すと、パタリと倒れる。支え、放つとまた、パタリと倒れ。それを何度も繰り返していくうちに、やがてひとりでにスッーと走り出すときが来る。子供が振り返ると、もうそこに父はいない。ふと脳裏をかすめる恐れ、しかし同時に湧き上がる喜び。いくらか時間が経つと、かつて父が後ろ支えをしてくれていたことを忘れてしまったかのように、子供が自由に自転車を走らせるようになる。ここでの“父”とはすなわち、私(精神科医)であり、その私が処方した薬物のことである。ひとたびあなたは、その力を借りなければならないが、いずれそのことが自然に忘れ去られていくような経過こそ、精神科治療の理想である」と。

 

2)患者が、さまざまな先行情報に惑わされないこと

患者が世の中のありとあらゆる雑多な健康情報に翻弄され、その混乱を臨床の場にも持ち込むということがままある。情報の取捨選択は、患者自身が、あくまで自らの身体感覚を参照枠として、自分の視座でもって行うべきものである。

 

3)患者の身体感覚が優れていること

患者が自らの身体のホメオスタシスがどういうものか分かっていると、薬物がもたらす身体への良き響きも悪しき響きも、ニュートラルに判定できる。

 

4)患者が、自らの身体感覚を言葉に出来る(言語化能力に長けている)

ここで患者に必要なのは論理力ではない。精神科医の身体に響かせ、深く納得させるような「官能的評価」を紡ぎ出す力である。

 

5)精神科医自身も身体感覚に優れ、患者の「官能的評価」をうまく掬い取れること

これまでに、患者の言葉が「腑に落ちた」体験を、数多く持っている精神科医であることが重要である。そして精神科医は、その患者の発する「官能的評価」がかなり独特なものであっても、唾棄せず、そのまま受け止めることができる(その場では、理解できなくとも、一旦棚上げにしておける)ことも重要である。このような精神科医であるなら、自らの身体をモニタリングしながら納得した患者の言葉から、治療における回答を導き出せる。

 

6)精神科医・患者とも、患者の身体が今後目指すべきベクトルを理解していること

薬物処方は精神科医が主導するにせよ、精神科医・患者の織りなす共同作品である。そこでは、患者の身体を舞台として精神科医の演出・独創性が活かされて、患者の身体構造が「楽」になる方へ流れていくための提案が為される。そのような時、精神科医は投薬にあたり、患者の身体が今後目指すべきベクトルを指し示し、導いてゆくことができる。患者もまた、精神科医の指し示すベクトルを納得・承認し、安心して服薬を開始できるのが理想である。

(以下、略)