「号泣議員」こそ、究極の笑いなのか

こんにちは、熊木です。

ここ数週、あちこちのメディアで、「号泣議員」が花盛りでした。
報道番組で、ある議員の激高して泣き叫ぶ姿が映されたのがきっかけです。
静かに受け答えしていたところから、急に支離滅裂な言動を見せるようになり、
そのまま記者の質問がうやむやにされてしまいました。

最初はこの奇矯な振る舞いが、議員として由々しきことだと道義的に非難する論調が大部分だったのですが、
次第にこの映像の扱いが変わっていきます。
この映像を揶揄するようにキュレーションしたさまざまな映像がネット上に溢れ出すようになり、それは世界のいたるところに飛び散りました。
これを見た外国人は、当然彼の発する日本語を解する訳はなく、ただその奇っ怪さに驚き、あざけり、おもしろがっていたようです。
これはすなわち「笑う」のではなく、「嗤う」ということです。

この映像の断片が「笑う」対象になるためには、それ自体に文脈があることが前提になります。
この映像が断片として一人歩きしだしたとき、その文脈は融解し、時空間を超えた「嗤い」になったといえます。

不思議なことに、この映像を見たお笑い芸人たちから、
「この議員はずるい、反則だ」「これぞ究極の笑いだ」「我々はこのような笑いを目指しているが、ついぞそこには至れない」というような”絶賛”の声が上がったのです。
(それともこれ自体、お笑い芸人特有の”茶化し”か?)

この議員の生み出した「嗤い」は、恥を恥とも思わず、なりふり構わず、醜悪な姿をさらけだしたもので、おそらく笑われようと狙ったものではないでしょう。
もし、このような”不作為な笑い(嗤い)”がお笑い芸人の目指す究極であるとするなら、お笑いに文脈が要らないということになります。

漫才・落語・コントなど、世に供せられるお笑いのほとんどは、文脈を持つものです。
私はお笑いを、見る側の情動を激しく揺り動かすため、精細に仕組まれた芸術のひとつだと考えています。
このことに自覚を持たず、お笑い芸人がこの議員のもたらした破格な「嗤い」を容認することで、
ひいては本来的な芸としてのお笑いを”破壊”することになりはしないか。

「号泣議員」の道義的責任・精神構造への言及がかまびすしいなかで、ふと思い浮かべたことです。

 

熊木徹夫
ビジネスマン専門カウンセリングルーム「戦士の休息」代表・精神科医)
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